両親にひどく叱られた、試験で良い結果が出なかった、そんな日は頭まで布団をかぶってオルゴールを開く。
かつて怪しげな露天でもらったそのオルゴールは他の誰に持たせても全く開くことはなかった。これが夜になると淡い燐光を放つことも、他の誰でもない自分だけが蓋を開くことができる事も、誰にも言ってはいないしいけないのだと思っている。なぜなら中にいる小さな人が生きているようすだったので。
せまい暗闇の中でいつものようにネジを捲いてそっと蓋を開けると、途端にまわりがキラキラとした暖かい光と音で包まれた。ぼくをやさしく癒すカノンのメロディー。中には、白くフワフワしたシフォンドレスを着てこちらを見上げる、いつもの、かわいらしい女の子がいた。
「きみが、はなせたらいいのに」
その言葉が伝わったのかそうでないのか、女の子は笑顔で小首をかしげた。
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晴れた日の公園で、なにやら不思議なものをしている老紳士に出会った。
老紳士の節くれだった手からムクムクと煙がたち、やがて大きなヒトガタになった。紳士が人差し指と親指の間からふうっと一息かけると、ヒトガタはおおきく一回りして、ぱん と乾いた音を立てて無数の白い蝶になって飛んで去った。
白い蝶が残した燐粉がはらはらとアクリルのボールになって落ちてきた。
これは…だいぶ
溜め息をつくように出た言葉で先方はこちらに気がついたようだ。
なんとも、お上手ですねえ
声をかけると、紳士は人の良さそうな顔で答えた。
お恥ずかしい、これは買ってきたものでねえ
ほう、売っておるのですか。どこです
あの、大きな文具屋があるでしょう、あそこで。
このように、けっこうな大仕掛けですから、猫が驚くもんで家ではできんのです
少しバツが悪そうに笑んだ。
今時の市販品はよくできてますな
いやまさに。おや、
何かに気付いたようにつまみあげた。
消えませんね。
それは先ほどの、蝶の燐粉が落としたアクリルのボールだった。
さしあげましょう?
受け取って光にかざすと、中では小さな蝶がきらきらひらひらと舞っているのだった。
空はまっくろなのに
あたりはどこまでもまっしろで
いま、ここ
たしかに世界にひとり
見上げればはるか、上空に向かって
飛んでいるようにみえるほど
あとからあとから途切れることなく、降り積もり
ただただ飽きることなく ばかみたいに口をひらいたまま
まだだいぶ先らしい 雪の終わりを待ち続けた
ひとかけらが落ちることさえ ききとれそうな静けさの中で
耳をすます
「一度だけ、俺は将太くらいん時、ウミの日のウミに入った事があるんだ」
僕はびっくりして智弘おじさんを見た。
「なんで」
「家にナイフを忘れてなあ。お前の父ちゃんがくれた肥後守。ほっとくとさびちゃうだろ、あわててみんなの見ていない時を狙って、こっそり村が沈んだウミの中に潜ったんだよ。すぐに行って帰ってくれば大丈夫だって」
「やっぱり、ご先祖様に連れ去られるっていうのは嘘だったんでしょ?」
智弘おじさんはどこか遠くを見たまま、唸った。
時折吹く風が水面をさらさら波立たせた。陽に光るウミは昨日まで村があったとは思えないほど、ずーっと前からウミだったように静かに水を湛えていた。
「…みんなが言うような、足をひっぱる幽霊がいるっていうのは嘘だな。いつ引っ張られるかーって思ってビクビクしながら泳いだが、まあ静かなもんだった。怖いくらい静かだった」
ウミの中は生き物の気配が全くしなかった。水に沈んだ石造りの街並みを、いつもの村の風景を、おじさんは屋根の上よりも高いところから見下ろした。
その日は晴れていて太陽の光がゆらゆらとさし込んでいたけれど、
小さな塵が漂うほか、魚も、草でさえも、生き物らしいものは何もなかったそうだ。
静かすぎてなんだかざわざわした。ただの水たまりとはなにか様子が違うらしいことはわかった。おじさんは早いとこ取ってこようって、息継ぎしながら家に急いだ。
そしてそれを見てしまった。
「な、何をみたの」
「お前だよ」
「え」
「あー、お前の幽霊かな。俺んちにいた」
「い、いないよ!いるわけないじゃん!息できないよ!」
「落ち着けよ。その前に生まれてないだろうが。家の窓から大人と、女の人と、子供がウロウロしてたのが見えたんだよ。でもなんかぼやっとして生きている感じがしなかった。やべえって思ってそのまま引き返した」
「なんで僕ってわかったの」
「その時は慌ててたんだがな、帰ってきてよーく考えてみると、男の方が兄貴に似てたような気がするんだ。兄貴が時子さん連れてきた時も、あの時の人だって思った。だから多分、あの子供は将太だ」
僕はきっとそのときすごい顔をしていたに違いない。
智弘おじさんはそのあと、ぷあっはと笑って僕の頭をかきまわした。
先週事故で死んだ栄二が、ビール片手に「よう」なんて言うから
玄関先で僕は思いっきり固まってしまったんだけど
「死んだんじゃなかったっけ?」
「死んだよ。」
栄二は笑顔で「飲もうぜ」と缶を揺らした。
「別に未練なんてなかったつもりなんだけどなあ」
2、3缶空けた後で栄二がつぶやいた。と言っても相手は死んでるから、空けたのは僕だ。栄二が美味そうに飲んだ後、ほいと手渡された缶の中には一缶分のビールがなみなみと残っていた。経済的かもしれないが栄二は不満そうだ。飲んだ気もしなければ酔いもしないらしい。
「普通迎えが来るとか光が見えるとか言うじゃんか。そういうの何にもないんだけど、死んだらその後はどうすればいい?」
「僕に訊かれても…。本当に何もないのか?」
「うーん。強いて言えば、なんかもっと生きたかったっていうか」
「ばっかおまえ、それのことを未練っつうんだよ」
「…おとといあたりに気づいたんだ。俺もっと生きたかったんだって」
栄二の目が真剣になったので
「なに。聞くよ」と僕は身を乗り出した。
「俺さ、生きてるときは別に死ぬのなんて怖くなかったんだよ。やりたいこととかないしさ、こうなりたいって夢もないしさ。ただ死ぬまでの時間をつぶすだけならジジイになって死んでも今死んでも同じだろとか、思ってた」
「言ってたな」
「…夢なんて。ビッグになりたいとかもなければ、マイホームほしいとか、ガキ二人ほしいとか、そんなんも無かったんだ」
そこで言葉をきってビールを呷った。
「でも死んだってわかってから初めて、もうバイク乗れねえなと思ったんだ。そしたら急に他の事思い出しちゃってさ。峠越えしてみたかったなとか、コイツでアメリカ横断してやりたかったなとか。親に借りた学費返してないことも。ヘリに乗って見に行くナイアガラツアーもまだだし、大阪の食い倒れすら行ったことない」
「そういや僕も大阪行ったことないな。国内だし、いつでも行けるんだからいつか行こうなって言ったきり、結局行けずじまいだったんだな」
「ほら。だからそれだよ」
こっちを向いて、半ば睨みつけて栄二は
「生きてるってことに安心していつでもできるとか思ってるとな、俺みたいになるんだ。俺にも夢があったんだ。こういうなんでもないような予定のことを日本語では『夢』って言うんだよ。くだらねえくらい些細なことでも、死にきれねえほどには楽しみにしてたんだよ。死んでからわかったよ」
悔しそうに僕を見て、
「いいよなあお前、生きてて」
恨めしそうにつぶやいた。
その重い空気に一瞬僕はたじろいだ。
「…こええっつの。それじゃまさにうらめしやーじゃねえか」
空気を変えようと軽口を叩いた。
「死人バカにすんなよ。祟るぞ」
笑って言った栄二は、もうすでにいつもの栄二だった。
冷蔵庫に何かいる。
小さく扉を開けると、シュウシュウという音がする。
もう少し開けて中を覗こうとしたら、逆に中から押し返された。慌ててバタンと閉めた。
すると中からドタンドタンと叩く音がする。これはまさか。
「賞味期限が切れたかもしんない!」
慌ててトイレ掃除をしている母さんの元へ走ると、
「またなの!だから食べ切れないものは買うんじゃないってあれほど言ったのに!」
タワシを投げて母さんが飛んできた。
母さんはゴム手袋をしている手そのままで冷蔵庫を勢いよく、えいっと開けた。
途端に飛び出す、手、手、手。扉が激しい勢いで弾け飛んだ。それは何かを撒き散らしながら高速で母さんの右手に巻きついた。飛沫が床を濡らした。粘液のようだ。ぬらぬらと緑色に光っている。
「あらやだ!まったく、いつまでも誰も食べないからこんなんなっちゃうでしょ!勿体ないったら」
母さんは巻きついてシュウシュウと音を立てる物体を、右手を横に一閃することで壁に叩きつけた。しばらくぐねぐね動いていたが、それがまさに落ちようとした瞬間、鋭く光るものが飛んできてズドンと音を立てて壁に縫い止めた。母さんが台所から包丁を真っ直ぐに投げたのだった。緑だったものは紫に変わり、動かなくなった。
「それ、何だったの…?」
「さあ。シュークリームか何かじゃないの。臭くなっちゃうから早く捨ててちょうだいよ、母さんそんなの片付けるのイヤだかんね。」